「大阪国際フェスティバル」の公式ブログです。

menu

大阪国際フェスティバル公式ブログ

エッセイ~バーンスタインの苦悩~(山田治生)

  今回のバーンスタイン「ミサ」の上演で、演出を行う井上道義氏は、作品中の司祭をバーンスタインと設定して、バーンスタインの内面の苦悩(自分のありたい自分と社会が求める自分とのギャップによる葛藤)を描くという。
 
  ここでは、バーンスタインの苦悩について、まとめておきたい。
  バーンスタインは、ずっと「指揮者としてよりも、作曲家として人々に知られたい」と思っていた。しかも「ウエスト・サイド・ストーリー」のようなミュージカルではなく、交響曲やオペラのようなクラシックの大作で名前を残したいと願っていた。つまり、バーンスタインは、自分と同じLBをイニシャルとするベートーヴェンのような永遠不滅の傑作を、あるいは自分と同じ指揮者兼作曲家であったマーラーのような交響曲を書きたいと望んでいたのである。カラヤンが最新のテクノロジーに高い関心を示し、自らの指揮芸術を録音や映像を遺すことにこだわっていたのとは対照的だ。

  バーンスタインは、55歳の誕生日に、彼のレコーディング・プロデューサーであったポール・マイヤーズに、「僕はもう55歳だ。ベートーヴェンが死んだ歳より2歳若いだけだ。でも僕は傑作を書いていないんだ」と嘆いたという。当時、バーンスタインは、「ウエスト・サイド・ストーリー」の作曲家として記憶されることを嫌い、ブロードウェイでの名声をむしろ邪魔なものと考えていた。バーンスタインが自らのミュージカルの傑作を受け入れらえるようになったのは晩年であり、最後は自ら指揮を執って遺言のように「ウエスト・サイド・ストーリー」や「キャンディード」を録音した。

  ただし、類稀なる音楽的な才能を持っていたバーンスタインがクラシック音楽の作曲家として望んでいたように大成することができなかったのは、彼の人一倍のさみしがり屋な性格にもあったといえよう。人間が大好きなバーンスタインは、食事や映画鑑賞には一人では行かないと公言していたが、作曲のために一人で部屋に籠るのも得意ではなかった。作曲に取り組んでいても、さみしくなると人を呼んでしまった。作曲は本質的には孤独な作業である。バーンスタインには、作曲よりも、人々とその場で喜びを分かち合える指揮の方が性に合っていたとはいえるかもしれない。
  いずれにしても、晩年のバーンスタインは、指揮者として頂点を極めながらも、絶望感を抱き続けていたのであった。
 
  クラシック作曲家としてのバーンスタインが認められなかった一因に、当時の音楽界の雰囲気や評論家たちの影響もあった。1960年代頃の現代音楽界は前衛が全盛の時代。バーンスタインの書く音楽はあまりに折衷的に思われた。そして、ニューヨーク・タイムズの高名な評論家、ハロルド・ショーンバーグは、バーンスタインの天敵ともいえる存在で、彼のニューヨーク・フィルでの跳びはねるような派手な指揮ぶりも、彼の書く作品も、辛辣に批判した。

  1960年代頃の音楽界は、今よりもずっと堅苦しく、クロスオーバー的なクラシックは軽んじられ、クラシックの純粋性が強調されていた。バーンスタインの評伝の著者であるジョーン・パイザーは、ショーンバーグら守旧派の評論家のことを「彼らは、自分たちが、どうにかして、クラシック音楽の純粋性を保ち、クラシック音楽を楽しんで観たり聴いたりできるようなものから遠ざけなければならないと思っているのです。芸術は苦痛をともなうべきだと思っているのです!」と述べていた。

  バーンスタインは、今ではマルチなミュージシャンとして高く評価されているが、当時のクラシック界では、異端と見なされていた。「ミサ」にしても、ショーンバーグらの悪評にさらされた。バーンスタインはそのことに打ちのめされた。
 
  そして時は流れ、古い評論家たちはいなくなり、バーンスタインの作品が生き残った。バーンスタインが生誕100年を迎える今こそ、彼の「ミサ」が正しく評価されるときに違いない。

撮影:林喜代種

★7/14(金)・15(土) フェスティバルホール
バーンスタイン「ミサ」の公演情報はこちら

関連記事

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。