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エッセイ~バーンスタインとミュージカル~1957年の究極の選択~(山田治生)

 クラシック音楽ファンにとって、レナード・バーンスタインとは、カラヤンと並ぶ20世紀後半を代表する偉大な指揮者である。しかし、多くの人々にとって、最も頻繁に耳にする“バーンスタイン”は「ウエスト・サイド・ストーリー」であるに違いない。

 歴史を後ろから振り返ると、バーンスタインは、大指揮者というイメージで語られてしまいがちだが、歴史をその分岐点まで遡ると、全く違う未来があったかもしれないということに気づく。その分岐点とは1957年である。1950年代後半、バーンスタインは、ミュージカルの作曲家を続けるのか、それとも、ニューヨーク・フィルの指揮者になるのか選択を迫られていた。

 バーンスタインが初めてミュージカルの作曲を手掛けたのは、1944年の「オン・ザ・タウン」だった(その直前、1943年11月に指揮者としてセンセーショナルなニューヨーク・フィル・デビューを飾り、1944年1月に自らの指揮で交響曲第1番「エレミア」を初演していた)。彼はまだ26歳の若さであった。1944年といえば、第二次世界大戦の真っ最中。「オン・ザ・タウン」は、そういう時代にニューヨークでの24時間の休暇をもらった3人の水兵がガール・ハントに出掛けるというストーリー。1944年12月にブロードウェイでスタートしたこのミュージカルは、ヒットを収め、463公演のロング・ランとなった。そして映画(邦題「踊る」)にもリメイクされた。

 しかし、バーンスタインの指揮での師匠であるロシア出身の大指揮者、クーセヴィツキーは、バーンスタインがブロードウェイに関わることを苦々しく思っていた。そのことで、バーンスタイン自身もクラシックとミュージカルの狭間で悩んだ。1949年には交響曲第2番「不安の時代」を自らのピアノ独奏で初演している。

 バーンスタインが2作目のミュージカルに取り組み始めたのは、クーセヴィツキーの死の翌年である1952年のことだった。第1作に続いて、第2作「ワンダフル・タウン」もまた、舞台にニューヨークが選ばれている。しかし、今度は、芸術家や学生たちの街、グリニッジヴィレッジ。作家や女優の卵が登場するこのミュージカルには、バーンスタインが暮らしたヴィレッジでの思い出が反映している。1953年2月にブロードウェイで開幕した「ワンダフル・タウン」もヒットを収め、その年のトニー賞のベスト・ミュージカル賞を獲得した。

 次の「キャンディード」は、18世紀フランスのヴォルテールによって書かれた「カンディード」をベースに、1950年代アメリカの政治状況(「マッカーシズム」と呼ばれた反共産主義的な風潮、いわゆる「赤狩り」)を風刺した作品である。「キャンディード」は1956年12月に開幕したが、作品自体はそれほどヒットせず、バーンスタインは後にその作品の改訂を繰り返していく。

 そして、1957年にブロードウェイの歴史を変える「ウエスト・サイド・ストーリー」が生み出される。シェイクスピアの「ロメオとジュリエット」のマンハッタン版であるこのミュージカルは、当時の社会問題(貧民街の不良少年たち)を扱う内容から、当初はブロードウェイでは成功しないであろうと思われていたが、1957年9月にスタートすると、ジェローム・ロビンズによる斬新なダンスやバーンスタインの画期的な音楽によって、熱狂的な支持を得て、大ヒットした。そしてバーンスタインは、一躍、ブロードウェイの寵児となったのである。

 ところが、ちょうど「ウエスト・サイド・ストーリー」の成功と前後して、バーンスタインのもとにニューヨーク・フィルの指揮者(音楽監督)の話が舞い込んできた。ミュージカルの作曲家としての仕事がまさにこれからという時期ではあったが、結局、彼は、1958年秋にニューヨーク・フィルの音楽監督に就任する。バーンスタインがニューヨーク・フィルの指揮者を選択した理由は、とても現実的なものであった。様々な才能とコラボレーションできるブロードウェイでの仕事は非常に魅力的であったが、妻と幼い二人の子供のいる彼にとっては、あまりにもリスクが大きかった。それに比べるとニューヨーク・フィルでの仕事は大金と社会的地位(ニューヨークの名士としてのステイタス)を約束するものだった。また彼の妻も安定を求めていた。その後、バーンスタインは、1969年までの11年間、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務め、いっさい、ブロードウェイの仕事をしなかった。それは時間がなかったからであると同時に、ブロードウェイに関わることはニューヨーク・フィルの指揮者にとってふさわしいことではないとオーケストラの理事会が判断していたからである。在任中の1963年12月には交響曲第3番「カディッシュ」をイスラエルで初演し、その1か月前に暗殺されたケネディ大統領に捧げた。

 1969年にニューヨーク・フィルを離れて、初めて書いた大作が「ミサ」だった。様々なジャンルの音楽が混ざり合った「ミサ」は、フリーとなったバーンスタインにとってまさにふさわしい作品であり、ある意味、作曲家バーンスタインにとっての集大成ともいえた。

 バーンスタインが、再び、ミュージカルの作曲に取り組んだのは、1976年の「ペンシルヴァニア通り1600番地」(注:ホワイトハウスの住所を表す)だったが、このミュージカルはわずか7回の上演で打ち切られてしまう。結局、作曲家としてのバーンスタインは、もう二度と「ウエスト・サイド・ストーリー」のような万人に愛される作品を書くこともないまま、この世を去ってしまったのである。作曲家として最も脂ののった時期に、作曲ではなく指揮活動を選んだことに、バーンスタインは多少の後悔があったかもしれない。

 今から見ればバーンスタインは時代を代表する指揮者になるべくしてなったと考えられがちだが、1957年の究極の選択で、作曲家として最盛期にあった彼がブロードウェイを選んでいたなら、「ウエスト・サイド・ストーリー」を凌駕するような名作を書いて20世紀を代表するミュージカル作曲家になっていたに違いない。そうすると、クラシック界では、カラヤンの一強時代が続いていたのであろう。

撮影:林喜代種

★7/14(金)・15(土) フェスティバルホール
バーンスタイン「ミサ」の公演情報はこちら

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