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「ミサ」出演者インタビュー~大山大輔さん

 バーンスタインの「ミサ」の主人公というべき司祭役を歌う大山大輔さんに話をきいた。今回の井上道義演出では、司祭は、この作品を作曲したバーンスタイン本人に設定されている。

バーンスタインの映像を見て、彼の動き方や指揮者として指導している姿などを研究しています。ただ、この司祭という役をきっちり全うすると自ずとバーンスタイン像が浮き彫りになるのではないかとも思っています

 司祭がキリスト教のミサの象徴である聖杯を床に投げつけて破壊するシーンは、この作品のクライマックスといってよいであろう。大山はこの衝撃的なシーンをこう解釈する。

僕自身の解釈は役に乗せるだけですが、僕の考えでは、彼は、教会で司祭という役職についているだけで、衣を剥げば、ただの人であり、一市民なのです。

 バーンスタインの『ミサ』は、あまりにも強大なキリスト教という宗教に異を唱える問題作です。聖杯を割る行為は、キリスト教なんて意味がないということを示しているのでしょう。そして、護られているものなら割れるはずのない聖杯が、実際に割れたことによって、それまで堅持してきた彼自身の精神も一緒に割れます。教えにのっとって抑え込んできたもののタガが外れてしまうのです。精神が崩壊し、感情の起伏の激しい状態になり、『聖杯も割れてしまえば、きれいじゃない』と思ったりします。聖杯を割ったあと15分くらい、司祭の長大ソロになるのですが、そこにはそれまで『ミサ』で出てきた音楽が走馬灯のように散りばめられています。司祭は、祈りを捧げに来ていた人々の顔や『みんな仲良くね』って教えていた子供たちの顔を思い出しますが、すべてが信じられなくなって、自分は身を横たえたいと思い、フェードアウトしていきます。

 それでも神様は見ている。人間の一時の気の迷いや過ちを神は赦す。最初に司祭が一人で無心に歌っていた『ラウダ、ラウダ、ラウデ』を最後には全員が口にします。司祭のやっていたことが無駄ではなかったと、みんなの唱和によって示される。そして一度消えた司祭がまた子供と一緒にその歌を歌いにやってくる。たとえ聖杯が割れても、人間にはちゃんと道徳心やみんなをつなぐものがある。どんな宗教にでもそれはあります。

 最後に『The Mass is ended ; go in Peace.』と告げられます。ミサは終わったけれど、平和は続くようにと。
たとえ儀式や役職がなくなっても、人間には全員がいい人生を送るだけのキャパシティがあるはずだということ。バーンスタインの『ミサ』は子孫たちへの置き土産です。『宗教にとらわれず、隣人を愛していこう』というメッセージだと僕はとらえています

(聞き手:山田治生)

★7/14(金)・15(土) フェスティバルホール
バーンスタイン「ミサ」の公演情報はこちら

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